NHK連続テレビ小説「らんまん」第21週(8月21日〜)では、大学を離れていた田邊彰久元教授が急死するという衝撃の展開がありそうです。
史実でもモデル人物(矢田部良吉教授)が若くして突然の死を迎えていますので、その死因や晩年の状況などをまとめます。
【らんまん】大学を離れた田邊 穏やかな日々を送るも…
自身の後ろ盾となっていた文部大臣の森有礼(橋本さとし)が暗殺され、熱心に教育に携わっていた女学校の廃止が突然決定されるなど、失意の中にいた田邊彰久教授(要潤)。
それでも妻の聡子(中田青渚)に背中を押されて植物研究に本腰を入れるようになった田邊は、学生たちと出掛けた石鎚山の植物採集旅行で発見した「キレンゲショウマ」を新属新種として発表。充実した研究の日々を送ることになります。
そんな中、田邊は突然大学から非職を命じられ、大学を去ることになります(明治24年3月)。※おそらくライバルだった動物学教授・美作秀吉(山本浩司)の暗躍で非職(=職を辞めること)に至ったのではないかと考えられます。
大学を離れた田邊は憑き物が取れたのか、聡子や子供たちに囲まれて穏やかな日々を過ごすことに。田邊は聡子の誕生日プレゼントとして家族で海水浴に行くことを約束するなど、家族との時間を大切にしていきます。
そんなある日、中尾のおじさん(小倉久寛)の質屋を訪ねた寿恵子(浜辺美波)は、そこで田邊が亡くなったという衝撃の新聞記事を目にすることになります。記事によれば、田邊は鎌倉の海岸で遊泳中に溺死をしたとのこと。
数カ月後。十徳長屋にやってきた聡子は、生前の田邊から伝え聞いていた「遺言」を万太郎に伝えます。聡子のお腹には新しい命が宿っており…。
【追記】8月18日(金)の第100回では、田邊が妻・聡子への誕生日プレゼントとして一家で海水浴に一緒に行くことを約束しています。あまり考えたくないですが、田邊の死はこれが引き金に…?
【史実】鎌倉で海水浴中に溺死(47歳) 矢田部良吉博士の悲しい最期
田邊彰久教授のモデル人物である東京大学植物学教室初代教授・矢田部良吉(やたべ・りょうきち)は、悲しい晩年を迎えています。
1890年(明治23年)、矢田部は牧野富太郎(槙野万太郎のモデル人物)に対し植物学教室への出入り禁止を告げていますが、その翌年(1891年)には大学内の権力争いに破れ、矢田部は大学を罷職にされています。
※この時の矢田部の権力争いの相手は、後に東京帝国大学理科大学の学長・総長を務めた数学者・菊池大麓(きくち・だいろく)だったとされます。菊池大麓は植物学教室を追放された牧野富太郎に同情を見せ、矢田部の失脚後には、富太郎が大学助手になれるように推挙をしてくれた人物です。
なお菊池大麓は、東京帝国大学理科大学で日本人初の動物学教授となった箕作佳吉博士(美作秀吉のモデル人物?)の兄にあたる人物です。
大学での職を失った矢田部ですが、それでも植物研究を続ける意志を見せ、植物学教室に出てきて「日本植物図解」を三冊出版。
1895年(明治28年)には高等師範学校の教授となり1898年(明治31年)には同校の校長になるなど、大学追放後も教育者としての活動を見せています。
しかし、1899年(明治32年)8月7日に避暑中だった神奈川・鎌倉海岸の沖合で遊泳中にあやまって溺死。47歳の若さでこの世を去っています。富太郎を教室から追放してから9年後の出来事でした。
当時の新聞(国民新聞)などが矢田部の急死を伝える記事を掲載していますので、こうした史実を参考に「らんまん」では田邊が急死→それを伝える新聞記事を寿恵子が質屋で目撃する、というエピソードが創作されそうです。