NHK連続テレビ小説「らんまん」の第8週・第9週では、槙野万太郎が「植物学雑誌」を創刊させるために奔走する姿が描かれていきます。
この「植物学雑誌」は万太郎のモデル人物である牧野富太郎らが1887年(明治20年)に創刊させた「植物学雑誌」の誕生エピソードがモチーフになっています。「植物学雑誌」は現在も後継雑誌が継続的に刊行中ですので、その歴史などもまとめます。
雑誌の創刊を思い立つ万太郎 田辺教授の許可を得て…
白梅堂で寿恵子(浜辺美波)と植物談義を交わしていた万太郎(神木隆之介)は、「日本中の植物図鑑を作る」という壮大な目標を見つけることになります。
その足がかりとして、万太郎はまずは植物学の雑誌を作ることを思い立ちます。万太郎はすっかり打ち解けた教室の友人・波多野泰久(前原滉)と藤丸次郎(前原瑞樹)の賛同も得て、雑誌の創刊に向けて具体的に動き出すことになります。
万太郎がやるべきことは、まずは気難しい田邊教授(要潤)から雑誌創刊の許可を得ること、そして美しい植物の図版を印刷するために自らが石版印刷の技術を習得すること。
万太郎は田邊教授から「学会の機関誌にすればいい」というアドバイスとともに雑誌創刊の許可を得ると、植物学会の事務局員でもある大窪(今野浩喜)にも巻頭書きを依頼することで上手く丸め込み、雑誌創刊へと突き進んでいきます。
「植物学雑誌」を創刊させた牧野富太郎
この一連のエピソードは、1887年(明治20年)に牧野富太郎らが中心となり創刊させた「植物学雑誌」の誕生エピソードがもとになっています。
上京して東京大学の植物学教室に出入りするようになっていた富太郎は、そこで出会って仲良くなった教室所属の学生・市川延次郎、染谷徳五郎とともに植物の雑誌を創刊させることを思い立ちます。
一応筋を通す意味でも植物学教室の矢田部教授に話を持っていくと、矢田部教授は「東京植物学会にまだ機関誌がないから、その雑誌を学会の機関誌にしたい」とのこと。
こうして明治20年2月、富太郎たちが作った雑誌を土台に矢田部教授らの手も加わり、「植物学雑誌」の創刊号が発刊されています。
牧野富太郎によれば「植物学雑誌」は文章も雅文体であり、とても内容が精錬されていたとか。同誌に続くように「動物学雑誌」「人類学雑誌」なども創刊したとのことです。
▼明治20年創刊の「植物学雑誌」第1巻・第1号の表紙(日本植物学会のホームページから引用)。牧野富太郎による「日本産ひるむしろ属」の論文のほか、大久保三郎(本会略史、まめづたらん)、田中延次郎(すっぽんたけノ生長)、染井徳五郎(花ト蝶トノ関係)らの論説が並んでいます。
誌上で多くの発表が行われる
こうして創刊した「植物学雑誌」は、現在でも後継雑誌(後述)が刊行されるなど歴史ある学会機関誌、研究発表の場として育まれていきます。
※「植物学雑誌(第1巻〜84巻)」の電子版が公開されています。
「植物学雑誌」には以下のような発表、文章も掲載されています。
・1889年(明治22年)牧野富太郎・大久保三郎が日本で初めて新種・ヤマトグサに学名を付けて発表
・1890年(明治23年)矢田部良吉が誌上で「今後日本植物の研究は日本人の手で行う」と宣言
・1894年(明治27年)平瀬作五郎が論文「ぎんなんノ受胎期ニ就テ」を発表 ※その2年後にイチョウの精子を発見
・1901年(明治34年)牧野富太郎による「日本植物考察(英文)」の連載開始
・1909年(明治42年)牧野富太郎が新種・ヤッコソウを発表
国立国会図書館オンラインによれば、「植物学雑誌」は以下のように日本植物学会の機関誌として後継されているようです。
・「植物学雑誌」…1887年〜1971年6月
・「Botanical Magazine, Tokyo」…1971年9月〜1992年12月
・「Journal of plant research」…1993年3月〜継続刊行中